M子の、M子による、M子のためのブログ
今日湯船に浸かってると、子供の頃の事がふっと浮かんで来ました。第二次世界大戦が始まる前夜に父が亡くなり、一か月後くらいに学校の関係で、姉と兄を私達の従姉に託し、母と私は東京を離れて、神戸の祖父の所に身を寄せ、戦争が始まったばかりの頃ラジオでは戦勝報告ばかりで、皆は普段通りの生活をしていた気がします。
今は各家庭に浴室が有って当たり前だけど、当時は無くて当たり前です。段々物が不自由になり、何もかもが配給制度で日常必要な物が、お金を出しても手に入り難くなりました。銭湯に行くと今じゃ~想像が付かないくらいに、湯船には人がいっぱいで身動きが取れないくらいでした。
湯船にのんびり浸かってられない事がもうひとつ、見張ってないと石鹸が盗まれたり衣服が無くなったり、油断も隙もありゃしない時代です。関東では初めから蛇口の前に陣取りますが、関西は湯船の淵に座り浴槽のお湯を掬って躰や頭を洗い、脱衣所に出る前に蛇口の所で上がり湯を掛けてます。
今は各家庭にお風呂が有るので、銭湯に行った事が無い若者が多いんじゃ無いかと思うけど、我が子が小・中校生の頃は友達同士が誘い合い、お風呂屋さんで裸の付き合いをしていたようです。街のお風呂屋さんが廃業して行くので、叔父さん叔母さん同士の裸の付き合いが無くなり、良き時代の風習が廃れて行くようで、何と無く寂しい気がします。
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日頃から気になって居る、宅配便で送られて来た10個ほどの段ボール箱が、洋間を占領してるので、整理しようと箱を平たくする作業が大変です。何でこんな物を大事に仕舞ってるんだろうと思うような物もいっぱい出て来たので、一旦リビングに持ち込み、捨てて良い物と悪い物を区別します。
置いといてもどうかな?と思う物で、捨てるに捨てられない物が、10年くらい前に孫娘母子3人と香港に行った時のホテルで、洗面所に置かれた20㎝角くらいの綺麗な箱です。蓋に英語で「ホンコン ディズニーランドホテル」、裏蓋に眠れる森の美女と王子様の絵が、中に7人の小人達の絵の付いた小箱が7個、櫛・シャンプー・歯ブラシセット等が入ってます。
日本のホテルでスリッパは当たり前なのに、外国のホテルでスリッパは置いていません。何故スリッパが必要かと言うと、入浴後に直接靴を履くのが嫌だから、台湾では堪りかねてつっかけを買いました。其れ以後は懲りて、香港のホテルでお持ち帰り出来る、不織布の袋入りで、真っ白の甲にミッキーの絵が付いた可愛いスリッパを、持参するようにしています。
東京のディズニーランドと違い、香港のは規模も小さく、飲食店も並ばずに食事が出来て、其れなりに良かったなと思いました。街のビルのトイレに入った時も凄く綺麗で、イギリスが統治していた時の名残でしょうか、街全体がモダンだった記憶が甦ってきます。部屋を整理してると思い出に浸れ、楽しいひと時を過ごせました。
嫁姑問題は永遠のテーマだと聞いてますが、お互い生まれも育ちも違うんだから無理もない話だと思います。近々知人の息子さんが結婚するそうで、上手く付き合って行く方法が有るかと聞かれました。自分がされて嫌だと思う事は、相手にもしちゃ~いけないと言うのが私の持論です。
話の途中で息子さんからの電話が有り、聴くともなしに耳に入ったのが、姑になる人がお嫁さんの名前を呼び捨てにしています。遠い昔私が結婚して初めて夫の実家に行った時の事です。夫の父は私の名前に「ちゃん」を付けて呼んでるのに、姑は自分の娘には「さん」付けで私を呼び捨てにして、気を悪くしたことを思い出しました。
ほんの小さな事でも、後々ワダカマリとして尾を引くものです。姑も若い内は威張って居られるでしょうが、いずれ歳をとれば衰えて行くのに、時々勘違いをして偉そうにする人がいるからややこしくなりますが、幸いな事に息子のお嫁さんは、機械に強くて賢かったので、私が尊敬していたので、仲良く出来た一因だと思っています。
お嫁さんの実家が近くに有り、共働きだった夫婦は子育てするのに、随分助けて貰ったと思います。時々私にも手伝ってと声を掛けてくれて、子守のお手伝いが出来て嬉しかったです。お互いが優しい気持ちで接したら良いのに、どちらかが偉ぶるか、馬鹿にするから、収拾のつかない揉め事に発展するような気がします。実の親子でも殺し合うご時世だから、同居は本当に難しそうです。
人それぞれの考え方が有るなと思ったのが、お正月に欠かせない数の子です。或るお宅に伺った時に出された数の子が、食べやすく切られてたので、大きな侭で出すよりは食べやすくて良いなと、真似をして家で切って出したら、折角大きい物を切ったら値打ちが無くると注意されました。
店屋で折れた数の子は安く売ってると言い、大振りの物は高く、小振りの物は安いのが相場だとも、折角高いお金を出して大きな数の子を買ってるのに、何で切り刻むんだと言われたら、成る程と納得出来ます。食事の後はデザートのイチゴです。大粒のイチゴだったからか、半分に切った物を盛って出されました。
先日息子が来た時に同じようにして出すと、何で切ってるの?と不服そうに言われたので、切って無いのを出しましたが、ポリシーを持ってない私は、人の振り見て我が振り直せ?で、良いか悪いか分からぬ侭に、良い年をして世間知らずと言うか、何でも真似をしてるけど、其々のお家に流儀が有るようです。
此れも良い考えだと実行してる事が電子レンジで、何か温めて居ても忘れる事がしばしばありました。同じお家で目にしたのが、横開きの電子レンジをきっちり閉めない事です。閉まってれば中に何かが入ってるけど、少し開いてたら中は空っぽ、良い考えだねと言ったら、閉め忘れてるだけですと言ってますが、私は重宝して居ます。
先日の続きでしょうか、また戦時中の出来事を聴いてきました。戦時中に3月の空襲で神戸にB29が、一日に何度も飛来したのかと、時間帯は決まってないよね。アメリカから直接飛んで来たのかな?其れとも何処かに中継地点が有ったんでしょうかと、問われるまでは其処まで気にした事が無かったな~。
住んでた家は空襲で焼けたの?と、戦争を知らない世代の人に幾ら言っても想像が付かない事だと思います。焼け出されて直ぐに疎開したの?とか、市電は普通に走ってた?の問いに、終戦の2年前位には普通のボロッちいトラックが市民の移動手段で乗るのに、大人の男性に手を引っ張って貰い乗った記憶が甦って来ました。
防空壕は家の傍に掘ったの?、道端にも掘ってたけど、家の畳を上げ床下に大きな穴を掘ったけど、あんな所に避難したら、今頃生きて居ません。焼け跡を見に行くと、大きな瀬戸物の火鉢が残ってるだけで、家は綺麗さっぱり焼けました。焼けて直ぐに疎開したのかとの問いに、今の三宮センター街の中ほどに有った、叔父の家に避難したと答えます。
戦死した叔父の妻と幼子二人の三人暮らしの家の二階に、移り住まわせて貰いますが、6月の空襲で再び焼け出され、其の時に叔母と三才の親子が行方不明のままで、私がおんぶしてた一才に満たない子は無事です。今度は別の叔父の家に移り住んだ数日後に祖父の知人を頼り、疎開しますが叔父の家財道具一式は、当時活躍してた馬に荷台を付けたもので運びました。
人間は汽車で移動ですが、戦時中は汽車に乗るのにも切符の制限が有り、買うのに大変だった事が思い出されます。敗戦が色濃くなった頃には、人間が貨物列車に乗せられたり、さすがに屋根に乗る人は居ませんが、デッキにぶら下がってるのは当たり前で、振り落されたら死んじゃうよと思う事もしばしば、例え死んでも誰も問題にしなかった筈です。振り返えると凄い時代だったと思います。
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プロフィール
HN:
M子
年齢:
95
性別:
女性
誕生日:
1931/03/05
職業:
主婦
趣味:
DVD鑑賞
自己紹介:
冥土のほとりを歩きつつ、ブログ。
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