暑い夏の日{昭和二十年八月十五日}のことです。玉音放送が有るから工場の庭に集まるようにと言われて大勢の人が集まって来ましたが、後ろの方に居た私達には何も聞こえてきません。あとで戦争に負けたんだと人伝てに聞かされましたがアメリカ兵が上陸して来たらどうしょうと、何とも言えぬ恐怖に怯えました。
戦争に負けたけど毎日のように恐れていた空襲が無くなった事がとても嬉しくて、大分後には不自由だった食料もアメリカの援助で、今まで口にしたことが無かった珍しい缶づめ類の配給も受けるようになります。工場に通わなくなった学生は即学校に戻るのではなく山に行って木を切り、其の木を薪割りで割って炭焼きです。流石に田舎娘はお手の物で木をスパッ・スパッと割っていました。
炭焼きが済むと今度は丘陵で持ち馴れない鍬{くわ}を持って開墾{かいこん}をして畑を作り、さつまいものツルを植えていきます。こんな時に都会育ちの娘は何の役にも立ちません。段々世の中が落ち着いた頃にやっと学校に通って勉強が始まりました。私が通う事になった学校は県立高等女学校で離れた町から汽車で通学して来る人が大勢いましたが、皆さん優秀で裕福なおっとりしたお嬢さん達ばかりです。
私は親のお陰で戦争中のどさくさに紛れて転校出来たものの、本当は私が入れる学校では無かったような気がします。当時は殆どの子が小学校を出て高等科へ二年通い働きに行っていたようです。中学校や女学校に行く子はクラスの中で半数位だったように記憶しています。疎開先の町では女学校に通う子が十人も居なかったようです。勉強は兎も角として友達との交流が楽しくて毎日真面目に通学していました。現在は男女共学になっていますが、昔は木造の校舎で渡り廊下が有り古ぼけた学校だったけど、今は建て替えられて見違えるようになってるだろうと思います。機会が有れば一度訪ねて行きたい町です。
姉は三宮で爆撃を逃れる為に道路に有る防空壕に入ったようですが、散々な目にあったように聞きました。幼い子二人を背中に私達三人が一緒に逃げたのに、いつの間にかバラバラになりそれぞれの運命が此処で分かれたようです。女学校を卒業して兵庫県庁に勤めていた姉はこの時受けた傷が元で死の淵を彷徨{さまよ}うことになり、後に難聴になりました。
外国の防空壕は完璧な作りのようなのに、当時の日本のは入れば死ぬか傷付くかの酷い物です。兄も酒蔵の庭に作られたコンクリートに鉄の扉の付いた頑丈に出来ていた筈の防空壕に避難して、入り口に落とされた小型爆弾で片腕に数発の破片が入り、取り除くのが大変でしたが、向かい側に座って居た親戚の子は足首が飛ばされて数ヶ月後に亡くなったようです。
私は暫くの間、負傷した姉と兄を交互に自転車の後ろに乗せて三キロ程離れた病院に治療に通いました。物が不自由な時に大切な自転車を快く貸してくれた疎開先のおじさんに今更ながら感謝しています。二十歳の時に病状が悪化して先がないと医師から宣告された事も有った姉が今でもボケもせずに頭だけはしっかりしているのを見て、改めて人間には与えられた寿命が存在することを知る思いです。
三宮の空襲の時に一緒に避難した筈なのに、赤ん坊だった従姉妹を私の背中に残した侭、其の母親と姉の姿を二度と見ることは有りませんでした。家を焼かれて幸いに焼け残った叔父の家に避難して居た祖父母や叔母と私達親子の総勢八人は速{すみ}やかに田舎へと逃げ出しました。
母が女学校の転校手続きをしてくれたようですが勿論学校に行くのでは無くて地元に有る軍需工場に行かされます。大きな旋盤{せんばん}の前に立って何やら削っていたような、田舎に行ったからと言って安心は出来ませんでした。空襲警報と共に艦載機{かんさいき艦船にに積まれた小型飛行機}が上空に飛んで来ます。
ある日のこと工場からの帰り道に田圃の真ん中を歩いて居るとき、上空に戦闘機が飛んで来て急降下しながら凄い爆音と同時にバリバリと機関銃で攻撃してきので慌ててあぜ道に伏せました。家に帰って知ったのが近所の叔母さんが二人家の中で弾が当たって亡くなったと言うのを聞き、野次馬根性丸出しで一軒の家に見に行ったけど、仰向けに亡くなってる叔母さんの横に大きな血溜まりが出来ているのを見てショックを受けました。
私達があぜ道に伏せて震えて居るときに他校の男の先生は自分の身を隠すのに必死で、女子生徒なんか完全に無視です。戦争は人の人格さえも変える愚かしいものだと実感しました。兎に角飛行機の爆音が怖くて、トラックが走るエンジンの音にも怯{おび}えていたのが思い出されます。
授業の中で長刀{なぎなた}の科目が有り、おでこに鉢巻きをして長い槍を振り回していた記憶が有ります。兵隊さんが来て軍事訓練をさせられた事も有りますが、授業中に警戒警報が鳴ると大急ぎで帰り支度をして一目散に電車に飛び乗り帰宅出来るので勉強嫌いな私には凄く嬉しいサイレンでした。此の時は戦争の危機感は未だ有りません。
一年生の間は何とか無事に通学出来たのが、二年生になると学徒動員で飛行機を作る工場に行かされ部品を渡すお仕事をしていました。一つの工場に数校の学生が働きに来ています。交通費は自前だったような?。お昼に黒っぽいまん丸のおにぎりとタクワンを二切れだったか?それを美味しく食べた想い出があります。
既に此の時は神戸駅近くに住んで居た家が空襲で焼かれて、三宮{現在の}センター街の叔父の家に居候をして居ました。毎日のように空襲が有り街中が焼け野原になって行きます。勿論軍事工場は標的にされて爆弾の雨です。阪神の深江から三宮まで歩いて帰る国道には爆弾が落ちて大きな穴がいっぱい出来て居たのと、道路に作られた防空壕で亡くなっている人が居たり、荷物を運ぶ馬車を引いていた馬の死骸を多く見たのも此の頃です。
昭和十八年の初夏だと思いますが三宮の大空襲で焼夷弾が雨のように落とされ三宮一帯が火の海になりました。逃げまどう人々の声を聞きながら立ち止まった場所が藤原・陣内さんの結婚式で有名な生田神社の塀の側です。悩んだ末に歩き出して兵庫県庁の前に出て来た時は自分が生きてるって意識したのを思い出します。火の地獄から生還した気分でししたが、道中にマネキン人形が沢山転がっていると見たのはみんな人間の死骸です。中には木の下に横たえられて、まるで眠って居るような感じの幼い子供も居ました。
もし家族が亡くなったとしても毎日のように敵機が襲来して爆弾や焼夷弾を落として行くのにお葬式なんて出来なかったと思います。街に溢れた死体は毎日のように何十台とも知れぬトラックに山積みされて何処へともなく運ばれて行きました。例え身内の者が亡くなったとしても探す事は至難の業だと思います。亡き人を悲しむより誰もが自分達の身の安全を守ることが先決で住んで居た街を捨て、爆撃から逃れたいと田舎に疎開する人が多くなりました。
神戸の学校では希望者だけに給食が出ていましたが、今でも美味しくなかった記憶が残っています。殆どの子供はお弁当を持ってきて居たようです。お弁当と言えば東京の教室の窓際にはスチームが有って冬はお弁当を載せて温めて食べたのに神戸ではストーブだったか余り覚えていませんが学校に着くと廊下を裸足で歩かされて居たような気がするので暖房は既に無かったのかもと思います。
女学校を受験する為に食堂を経営する同級生と二人で受け持ちの先生に家庭教師をお願いしていました。食糧難が身近に迫っているなと感じたのが此の頃です。先生が出される食事を当てにして来て居るのが子供心に良く分かります。瓦せんべいを売る家の同級生が先生が度々訪ねて来るとすっぱ抜いた時は真っ赤な顔をして怒って否定していたことも有りで徐々に食料が不足してるけど未だ余裕は有ったような、でも食糧難が忍び寄って居たのは確かです。