昭和二十年代の運送自動車はオート三輪の小型トラックが走っていて、ユーターンするときに運転の未熟さからか横転しているのを良く見掛けた事が有ります。今では少年でも乗ってるバイクも、当時は珍しくて自動二輪で取引先に乗って行くと社長から社員まで出てきて羨ましがられたと夫が自慢していました。
本町から心斎橋まで行くのに伯母と二人で地下鉄に乗らずに輪タクのうしろの座席に並んで座って乗ったのも遠い昔の事です。地下鉄と言えば戦後に市電が無くなったから、大阪の地下をあちこちと掘って今では何本かの線を地下鉄が走り、其の線がドンドンと遠くに延長して行って交通の便は確かに良くなっているようですが、地震が来たら落下しないかと案じています。
神戸の震災の時に大開通りの広い道路が地下鉄の線路に落ち込んだ様子を見て知ってるだけに、果たして地震に耐えられるのかが心配で、大分以前に大阪の歌舞伎座の裏通りの道路がいきなり陥没したのを見たことも有り、地下鉄の上の道路を機嫌良く走ってる車が突然落下することが無きにしも非ずと密かに危惧しています。モグラじゃ無いんだからいい加減掘るのを止めないと自然からのシッペ返しが怖いです。
伯母は自分が好きだった事も有りで、私に見聞を広く持たせようと文楽や歌舞伎の観劇にも連れて行って貰ったり、山の上に有る有名な寺院仏閣等と色んな説明をしながらお供をさせてくれたのに私は不肖の弟子だったようですが、お陰でその後は自分から実演をよく観るようになりましたし、ロシア文学も訳が分からぬ侭に友達から借りていっぱい読みました。何故か今は少ししか記憶に残っていません。
時々青春とは何ぞやと疑問に思った事も有りますが、近所の青年が遊びに来て、麻雀の手ほどきを受けながら仲間に入れて貰った時には、青春と言うのには余りにも寂し過ぎるけど其れなりに楽しい一時だったから、取り敢えず時代の中でその時が楽しく過ごせれば其れが青春なんだと思えば良いと割り切ったようです。身が細る程の片思いも経験して今では我が青春に悔い無しの心境になっています。
美人で賢い親戚の伯母の周辺には青年から年輩の男性が何かにかこつけて集まって来ていました。此処に居るときに世間並みの常識や色んな事が身に付いたと思って感謝しています。伯母が経営する洋裁店には私の他に二人住み込んでいました。私の話に良く出てくる親戚のお婆さんとは此の伯母のお母さんです。
私は食料の買い出しや土掘りは出来ても、炊事洗濯などは全て母任せだったから、初歩的な野菜やお鍋の洗い方までしっかり叩き込まれたのが此のお婆さんで、生きて行く上での一般常識も教えてもらい本当に良い勉強をさせて貰ったと思います。お説教を聞くときは「うるせ~」と心の中で反発をしたことも有った人に、夫との結婚を薦めて貰い現在が有るのに、何て罰当たりな事をと反省しながら毎日のお祈りは欠かしません。
三年ちょっとの大阪暮らしの中で、服の代金を払わない家に行って借金取りの真似事をした事も有ります、と言うのも集金に行くと空襲で焼け出されて住む家の無い人達が小学校の教室を仕切って仮住まいして居て、当の親娘の姿が余りにも哀れで役目を果たせずに帰って来ました。今のように既製服が安価で溢れる程の物が無い時代に安い布で注文する方が良かったのか、お客さんは多かったけど時々支払いの出来ない人も居ました。今では街の洋裁店をあまり見掛けなくなり何だか遠い昔のお話のようです。振り返えれば寂{さび}れて行った商売の多いことに気付かされます。
平和になってから長い年月が過ぎたのに、お米の配給制度はず~っと続いていましたが、当時は他県から大阪市内への転入が認められなかったので、私のお米の配給は受けられず、足りない分はちょっと裕福な伯母が闇米を買って補填{ほてん}してくれたので御飯を食べる苦労はしませんでした。
伯母の家の前に市電が走っていて道路わきには向日葵{ひまわり}を植えていたので大きな花を咲かせた後の種を採取して干し、それを炒って種の中身を美味しく食べます。おやつには持ってこいの物で、南瓜の種もこうして食べました。お菓子なんか無い時代だからとても嬉しい食べ物です。
其の頃になると飲食店も開店するようになります。殆どの家にお風呂が無くて遠方のお風呂やさんに行きますが、伯母からお風呂代を貰うとうどん代に変わる事が度々有りました。若かったからお風呂より食い気の方が勝ったようです。あの時のおうどんの味が今では懐かしい想い出となっています。
戦地から帰って来た叔父は敷地が広いのを利用して絵の上手な友達を誘い看板屋を始めました。自分が社長になって注文を取って来るのです。長男だからと内地に居た叔父は家が道路に面して居たので食料品を売るお店を始めますが、祖父は戦前からしていた刀剣商のお店を開きました。向かい側には映画や実演が出来る大きな劇場も出来て何時の間にか立派な商店街になりました。
終戦後にバラックの家を建てるのにも国の規制が有り思うように建てられなかった家が世の中が落ち着いてくるに従って建て替える事が出来るようになります。区画整理が始まった為に祖父達が住んで居た家の辺りは大きな道路が出来ると言うので立ち退くことになり、祖父母と母達が一緒に住む為に家を建て替える事になりましたが此の頃 私は大阪の親戚の伯母の所へ洋裁を教えて貰いに行き家には居ませんでした。
戦後の人々は今までに経験したことの無い商売を始めますが、中でも厚かましく立ち向かった人は勝者となり、あかんたれは敗者となって、じり貧になって行ったようです。私も生活の為にお米やジャガイモの買い出しに奔走して担ぎ屋の真似事をした事が有りました。みんな生きて行くのに必死で真剣だったような気がします。