M子の、M子による、M子のためのブログ
小学校を卒業したら県立や市立の男子が通う中学校と女子が行く女学校が有り、県立や市立は優秀な子しか行けませんでした。その他の私立はランクが有り、今の高校と同じ形態です。私も其の内のレベルが低い私立の女学校に合格して通学する事になりました。
授業の中で長刀{なぎなた}の科目が有り、おでこに鉢巻きをして長い槍を振り回していた記憶が有ります。兵隊さんが来て軍事訓練をさせられた事も有りますが、授業中に警戒警報が鳴ると大急ぎで帰り支度をして一目散に電車に飛び乗り帰宅出来るので勉強嫌いな私には凄く嬉しいサイレンでした。此の時は戦争の危機感は未だ有りません。
一年生の間は何とか無事に通学出来たのが、二年生になると学徒動員で飛行機を作る工場に行かされ部品を渡すお仕事をしていました。一つの工場に数校の学生が働きに来ています。交通費は自前だったような?。お昼に黒っぽいまん丸のおにぎりとタクワンを二切れだったか?それを美味しく食べた想い出があります。
既に此の時は神戸駅近くに住んで居た家が空襲で焼かれて、三宮{現在の}センター街の叔父の家に居候をして居ました。毎日のように空襲が有り街中が焼け野原になって行きます。勿論軍事工場は標的にされて爆弾の雨です。阪神の深江から三宮まで歩いて帰る国道には爆弾が落ちて大きな穴がいっぱい出来て居たのと、道路に作られた防空壕で亡くなっている人が居たり、荷物を運ぶ馬車を引いていた馬の死骸を多く見たのも此の頃です。
昭和十八年の初夏だと思いますが三宮の大空襲で焼夷弾が雨のように落とされ三宮一帯が火の海になりました。逃げまどう人々の声を聞きながら立ち止まった場所が藤原・陣内さんの結婚式で有名な生田神社の塀の側です。悩んだ末に歩き出して兵庫県庁の前に出て来た時は自分が生きてるって意識したのを思い出します。火の地獄から生還した気分でししたが、道中にマネキン人形が沢山転がっていると見たのはみんな人間の死骸です。中には木の下に横たえられて、まるで眠って居るような感じの幼い子供も居ました。
もし家族が亡くなったとしても毎日のように敵機が襲来して爆弾や焼夷弾を落として行くのにお葬式なんて出来なかったと思います。街に溢れた死体は毎日のように何十台とも知れぬトラックに山積みされて何処へともなく運ばれて行きました。例え身内の者が亡くなったとしても探す事は至難の業だと思います。亡き人を悲しむより誰もが自分達の身の安全を守ることが先決で住んで居た街を捨て、爆撃から逃れたいと田舎に疎開する人が多くなりました。
授業の中で長刀{なぎなた}の科目が有り、おでこに鉢巻きをして長い槍を振り回していた記憶が有ります。兵隊さんが来て軍事訓練をさせられた事も有りますが、授業中に警戒警報が鳴ると大急ぎで帰り支度をして一目散に電車に飛び乗り帰宅出来るので勉強嫌いな私には凄く嬉しいサイレンでした。此の時は戦争の危機感は未だ有りません。
一年生の間は何とか無事に通学出来たのが、二年生になると学徒動員で飛行機を作る工場に行かされ部品を渡すお仕事をしていました。一つの工場に数校の学生が働きに来ています。交通費は自前だったような?。お昼に黒っぽいまん丸のおにぎりとタクワンを二切れだったか?それを美味しく食べた想い出があります。
既に此の時は神戸駅近くに住んで居た家が空襲で焼かれて、三宮{現在の}センター街の叔父の家に居候をして居ました。毎日のように空襲が有り街中が焼け野原になって行きます。勿論軍事工場は標的にされて爆弾の雨です。阪神の深江から三宮まで歩いて帰る国道には爆弾が落ちて大きな穴がいっぱい出来て居たのと、道路に作られた防空壕で亡くなっている人が居たり、荷物を運ぶ馬車を引いていた馬の死骸を多く見たのも此の頃です。
昭和十八年の初夏だと思いますが三宮の大空襲で焼夷弾が雨のように落とされ三宮一帯が火の海になりました。逃げまどう人々の声を聞きながら立ち止まった場所が藤原・陣内さんの結婚式で有名な生田神社の塀の側です。悩んだ末に歩き出して兵庫県庁の前に出て来た時は自分が生きてるって意識したのを思い出します。火の地獄から生還した気分でししたが、道中にマネキン人形が沢山転がっていると見たのはみんな人間の死骸です。中には木の下に横たえられて、まるで眠って居るような感じの幼い子供も居ました。
もし家族が亡くなったとしても毎日のように敵機が襲来して爆弾や焼夷弾を落として行くのにお葬式なんて出来なかったと思います。街に溢れた死体は毎日のように何十台とも知れぬトラックに山積みされて何処へともなく運ばれて行きました。例え身内の者が亡くなったとしても探す事は至難の業だと思います。亡き人を悲しむより誰もが自分達の身の安全を守ることが先決で住んで居た街を捨て、爆撃から逃れたいと田舎に疎開する人が多くなりました。
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小学六年生?の時の修学旅行は伊勢神宮に一泊で行きました。木造の古ぼけた建物の高千穂旅館と言う名前は今でも忘れません。五十鈴川とか大広間でみんなと寝た事や、電車のホームまで見送りに来た番頭さんが「今度は新婚旅行に来てください」と手を振ってくれたことを覚えています。お土産の生姜板{しょうがいたと言って砂糖に生姜を入れて固めたお菓子}を買うのに、欲しくも無い他の玩具が抱き合わせになって居て、殆どの子は買いませんでした。
神戸の学校では希望者だけに給食が出ていましたが、今でも美味しくなかった記憶が残っています。殆どの子供はお弁当を持ってきて居たようです。お弁当と言えば東京の教室の窓際にはスチームが有って冬はお弁当を載せて温めて食べたのに神戸ではストーブだったか余り覚えていませんが学校に着くと廊下を裸足で歩かされて居たような気がするので暖房は既に無かったのかもと思います。
女学校を受験する為に食堂を経営する同級生と二人で受け持ちの先生に家庭教師をお願いしていました。食糧難が身近に迫っているなと感じたのが此の頃です。先生が出される食事を当てにして来て居るのが子供心に良く分かります。瓦せんべいを売る家の同級生が先生が度々訪ねて来るとすっぱ抜いた時は真っ赤な顔をして怒って否定していたことも有りで徐々に食料が不足してるけど未だ余裕は有ったような、でも食糧難が忍び寄って居たのは確かです。
神戸の学校では希望者だけに給食が出ていましたが、今でも美味しくなかった記憶が残っています。殆どの子供はお弁当を持ってきて居たようです。お弁当と言えば東京の教室の窓際にはスチームが有って冬はお弁当を載せて温めて食べたのに神戸ではストーブだったか余り覚えていませんが学校に着くと廊下を裸足で歩かされて居たような気がするので暖房は既に無かったのかもと思います。
女学校を受験する為に食堂を経営する同級生と二人で受け持ちの先生に家庭教師をお願いしていました。食糧難が身近に迫っているなと感じたのが此の頃です。先生が出される食事を当てにして来て居るのが子供心に良く分かります。瓦せんべいを売る家の同級生が先生が度々訪ねて来るとすっぱ抜いた時は真っ赤な顔をして怒って否定していたことも有りで徐々に食料が不足してるけど未だ余裕は有ったような、でも食糧難が忍び寄って居たのは確かです。
東京に住んでいた時の話は以前に何度か書きましたのではしょります。昭和十六年十二月八日{当時}大東亜戦争{第二次世界大戦}勃発{ぼっぱつ}の前日に父が亡くなり後日、私達親子は祖父母の住む神戸へと舞い戻る事になりました。
年を追う毎に統制が厳しくなって何を買うにも国が発行したキップで決められた物しか買う事が出来ません。徐々に食べ物が手に入らなくなったり、ガスが止まって御飯を炊くにも燃料が無いから遠くの山まで枯れ枝を拾いに行ったりと大変でした。
ある日の事、町会のお達しで家の床下を掘って防空壕をつくれと言うのです。そんなアホなと思っても絶対に逆らえないから仕方なく、たたみ一畳分くらいの広さで七十センチ深さの穴を掘りますが、十三才くらいの子供でさえも此の穴に入れば焼夷弾が落ちてきたら完全に焼け死ぬと分かって居ても、偉そうに命令する役員のおじさんの言いなりです。
防空訓練の動員を掛けられると長い竹槍{たけやり}を持って「エイヤッ」と、アメリカ兵を突く訓練をさせられます。水の入ったバケツを数人でリレーして軒の高さの所にぶっかけますが、いざ焼夷弾が落ちて家が燃えだしたらこれらの訓練は絶対に無駄だし、第一鉄砲を持ったアメリカ兵を竹槍で突き殺そうなんて、誰が考えてもナンセンスだと思うと何だかアホらしくなります。
夜になれば灯火管制と言って電球の傘に黒い布を被せて外に灯りが漏れないようにしますが少しでも外から灯りが見えよう物なら見回りのおじさんに大声で注意されてえらい事です。お陰で月夜で無い限りは外は真っ暗闇になり歩くのに一苦労しました。空襲警報の後に敵機が上空に来て先ず照明弾を落とすと昼間より明るくなるので民家の灯りなんか全然問題になりません。アメリカをなめんじゃね~ってなもんです。
年を追う毎に統制が厳しくなって何を買うにも国が発行したキップで決められた物しか買う事が出来ません。徐々に食べ物が手に入らなくなったり、ガスが止まって御飯を炊くにも燃料が無いから遠くの山まで枯れ枝を拾いに行ったりと大変でした。
ある日の事、町会のお達しで家の床下を掘って防空壕をつくれと言うのです。そんなアホなと思っても絶対に逆らえないから仕方なく、たたみ一畳分くらいの広さで七十センチ深さの穴を掘りますが、十三才くらいの子供でさえも此の穴に入れば焼夷弾が落ちてきたら完全に焼け死ぬと分かって居ても、偉そうに命令する役員のおじさんの言いなりです。
防空訓練の動員を掛けられると長い竹槍{たけやり}を持って「エイヤッ」と、アメリカ兵を突く訓練をさせられます。水の入ったバケツを数人でリレーして軒の高さの所にぶっかけますが、いざ焼夷弾が落ちて家が燃えだしたらこれらの訓練は絶対に無駄だし、第一鉄砲を持ったアメリカ兵を竹槍で突き殺そうなんて、誰が考えてもナンセンスだと思うと何だかアホらしくなります。
夜になれば灯火管制と言って電球の傘に黒い布を被せて外に灯りが漏れないようにしますが少しでも外から灯りが見えよう物なら見回りのおじさんに大声で注意されてえらい事です。お陰で月夜で無い限りは外は真っ暗闇になり歩くのに一苦労しました。空襲警報の後に敵機が上空に来て先ず照明弾を落とすと昼間より明るくなるので民家の灯りなんか全然問題になりません。アメリカをなめんじゃね~ってなもんです。
人間の記憶なんていい加減なもので、特に私の場合はです。昨日の「血は騒ぐ」なんて後で自分でも可笑しくなってそんなバカなって笑いました。「血はもゆる」だったような気がします。タバコの替え歌で「きんし上がって15銭 栄{は}えあるひかり30銭それより高いほうよくは高くて苦くて40銭あ~あ一億の金がへる」なんてキンシ・ヒカリ・ホウヨクは当時のタバコの銘柄です。
軍歌で、天に代わりて不義をを撃つの替え歌は、天井{てんじょ}にカナズチ釘を打つ チュウチュウネズミの運動会、となかなか面白い替え歌がいっぱい有りました。何しろ子供だったからうっすらとしか覚えて居ません。講堂で公の式がある時は校長が白い手袋をはめて中心部のトビラを開け、紫の袱紗{ふくさ}に包まれた教育勅語の巻物を三宝に載せて台の上で恭{うやうや}しく開き「朕「チン}おもうに我が皇祖こうそ」と続けますが、悲しいかなこれも記憶から遠ざかっています。式典の間の生徒は皆神妙にしていました。
今は国歌を歌わなかったり座った侭の教師が問題になっていますが、当時でも地下に潜って反抗する人が居て、捕まれば半殺しの酷い仕打ちをされたと聞いたことがあります。今の北朝鮮を画像で見て居て同じように感じて居ますが、兎に角貧富の差が有り、食い扶持{くいぶち}を減らす為に幼い我が子を奉公に出す親が多く居たようです。学校給食が無い時代で空腹を補う事が出来ないから親心として他人に預けて食べさせようとしたのでしょうか。今の子は本当に恵まれて居ると思います。
軍歌で、天に代わりて不義をを撃つの替え歌は、天井{てんじょ}にカナズチ釘を打つ チュウチュウネズミの運動会、となかなか面白い替え歌がいっぱい有りました。何しろ子供だったからうっすらとしか覚えて居ません。講堂で公の式がある時は校長が白い手袋をはめて中心部のトビラを開け、紫の袱紗{ふくさ}に包まれた教育勅語の巻物を三宝に載せて台の上で恭{うやうや}しく開き「朕「チン}おもうに我が皇祖こうそ」と続けますが、悲しいかなこれも記憶から遠ざかっています。式典の間の生徒は皆神妙にしていました。
今は国歌を歌わなかったり座った侭の教師が問題になっていますが、当時でも地下に潜って反抗する人が居て、捕まれば半殺しの酷い仕打ちをされたと聞いたことがあります。今の北朝鮮を画像で見て居て同じように感じて居ますが、兎に角貧富の差が有り、食い扶持{くいぶち}を減らす為に幼い我が子を奉公に出す親が多く居たようです。学校給食が無い時代で空腹を補う事が出来ないから親心として他人に預けて食べさせようとしたのでしょうか。今の子は本当に恵まれて居ると思います。
昭和十四・五年辺りの歌で「紀元は二千六百年あ~あ一億の血は騒ぐ」と小学生時代に唄っていた記憶が有ります。此の時分に尋常小学校から国民学校と呼び名も変わり、何だか勇ましい軍歌が多く唄われて居たようです。
S十三年くらいに東京の有楽町に有った多分日本劇場だったと思いますが、何しろ子供の頃で名前が出て来ません。兎に角有名なスターの実演が有ればファンが劇場を四重にも取り巻いて今のヨン様の比じゃ無いくらいに凄かったのを覚えています。
当時はラジオしか無かったから、楽しみと言えば映画やお芝居に歌手とか俳優の実演を観に行ったものです。当時の浅草近辺も映画館に劇場や飲食店が建ち並び通行人で溢れていたのが、二十年数年前に訪れて余りの寂{さび}れ方に驚きました。
新橋駅近くの小学校に通っていた其の学校が、とっくに廃校になり無くなったとニュースで知ったのもこの頃の事です。東京に限らず現在の大阪でも久しぶりに訪れた場所が一変して見知らぬ街になっているから怖い気がします。
気軽に昔話をと薦められて書きかけたけど、何しろ記憶力が乏しいからやっぱり無理みたいです。でも書けるところまで頑張りたいと思いますので宜しく。
S十三年くらいに東京の有楽町に有った多分日本劇場だったと思いますが、何しろ子供の頃で名前が出て来ません。兎に角有名なスターの実演が有ればファンが劇場を四重にも取り巻いて今のヨン様の比じゃ無いくらいに凄かったのを覚えています。
当時はラジオしか無かったから、楽しみと言えば映画やお芝居に歌手とか俳優の実演を観に行ったものです。当時の浅草近辺も映画館に劇場や飲食店が建ち並び通行人で溢れていたのが、二十年数年前に訪れて余りの寂{さび}れ方に驚きました。
新橋駅近くの小学校に通っていた其の学校が、とっくに廃校になり無くなったとニュースで知ったのもこの頃の事です。東京に限らず現在の大阪でも久しぶりに訪れた場所が一変して見知らぬ街になっているから怖い気がします。
気軽に昔話をと薦められて書きかけたけど、何しろ記憶力が乏しいからやっぱり無理みたいです。でも書けるところまで頑張りたいと思いますので宜しく。