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M子の、M子による、M子のためのブログ

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美人で賢い親戚の伯母の周辺には青年から年輩の男性が何かにかこつけて集まって来ていました。此処に居るときに世間並みの常識や色んな事が身に付いたと思って感謝しています。伯母が経営する洋裁店には私の他に二人住み込んでいました。私の話に良く出てくる親戚のお婆さんとは此の伯母のお母さんです。

私は食料の買い出しや土掘りは出来ても、炊事洗濯などは全て母任せだったから、初歩的な野菜やお鍋の洗い方までしっかり叩き込まれたのが此のお婆さんで、生きて行く上での一般常識も教えてもらい本当に良い勉強をさせて貰ったと思います。お説教を聞くときは「うるせ~」と心の中で反発をしたことも有った人に、夫との結婚を薦めて貰い現在が有るのに、何て罰当たりな事をと反省しながら毎日のお祈りは欠かしません。

三年ちょっとの大阪暮らしの中で、服の代金を払わない家に行って借金取りの真似事をした事も有ります、と言うのも集金に行くと空襲で焼け出されて住む家の無い人達が小学校の教室を仕切って仮住まいして居て、当の親娘の姿が余りにも哀れで役目を果たせずに帰って来ました。今のように既製服が安価で溢れる程の物が無い時代に安い布で注文する方が良かったのか、お客さんは多かったけど時々支払いの出来ない人も居ました。今では街の洋裁店をあまり見掛けなくなり何だか遠い昔のお話のようです。振り返えれば寂{さび}れて行った商売の多いことに気付かされます。

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平和になってから長い年月が過ぎたのに、お米の配給制度はず~っと続いていましたが、当時は他県から大阪市内への転入が認められなかったので、私のお米の配給は受けられず、足りない分はちょっと裕福な伯母が闇米を買って補填{ほてん}してくれたので御飯を食べる苦労はしませんでした。

伯母の家の前に市電が走っていて道路わきには向日葵{ひまわり}を植えていたので大きな花を咲かせた後の種を採取して干し、それを炒って種の中身を美味しく食べます。おやつには持ってこいの物で、南瓜の種もこうして食べました。お菓子なんか無い時代だからとても嬉しい食べ物です。

其の頃になると飲食店も開店するようになります。殆どの家にお風呂が無くて遠方のお風呂やさんに行きますが、伯母からお風呂代を貰うとうどん代に変わる事が度々有りました。若かったからお風呂より食い気の方が勝ったようです。あの時のおうどんの味が今では懐かしい想い出となっています。





今更のように戦後の話を書いていますが、此の手の昔話は旧ブログか新ブログかは覚えて居ませんけど今までに小出しにして書いたのでダブっている部分が多々有ると思います。其れでも書こうとして居るのは何なんでしょう。

戦地から帰って来た叔父は敷地が広いのを利用して絵の上手な友達を誘い看板屋を始めました。自分が社長になって注文を取って来るのです。長男だからと内地に居た叔父は家が道路に面して居たので食料品を売るお店を始めますが、祖父は戦前からしていた刀剣商のお店を開きました。向かい側には映画や実演が出来る大きな劇場も出来て何時の間にか立派な商店街になりました。

終戦後にバラックの家を建てるのにも国の規制が有り思うように建てられなかった家が世の中が落ち着いてくるに従って建て替える事が出来るようになります。区画整理が始まった為に祖父達が住んで居た家の辺りは大きな道路が出来ると言うので立ち退くことになり、祖父母と母達が一緒に住む為に家を建て替える事になりましたが此の頃 私は大阪の親戚の伯母の所へ洋裁を教えて貰いに行き家には居ませんでした。

戦後の人々は今までに経験したことの無い商売を始めますが、中でも厚かましく立ち向かった人は勝者となり、あかんたれは敗者となって、じり貧になって行ったようです。私も生活の為にお米やジャガイモの買い出しに奔走して担ぎ屋の真似事をした事が有りました。みんな生きて行くのに必死で真剣だったような気がします。
私がお金と縁が無い少女時代のお話です。終戦後の何時だったか銀行に預けていたお金が封鎖されて出せなくなった事が有り、それと同じ時期くらいに旧いお金と新円が切り替わり貨幣価値も大きく下がったように聞いた覚えが有ります。戦前は優雅に暮らして居た旧華族は終戦と同時に没落して行き大変苦労されたと聞きました。

戦後は其れまで上流階級でお上品に暮らして居た人達の大きな家は米軍に没収されて暮らしに困ったようです。今まで底辺で貧乏暮らしを余儀なくされて居た人の中で賢く立ち回る人間が台頭して来て闇屋と呼ばれながらも稼ぎまくり大成金になりました。田舎では田畑をいっぱい持って居た地主は政府の命令で、田畑を貸して居た小作に土地を取られ事になります。

街には家や親を亡くした孤児達が溢れ、生きていく為に学校にも行かず健気「けなげ}に頑張って働いていました。当時は進駐軍兵士を相手に靴磨きをして稼ぐ子が多くて、みんな逞しく暮らして居たようです。懐かしい言葉は「ギブミーチョコレート」とアメリカ兵の乗るジープに駆け寄っておねだりしていた少年達の姿が昨日のことのように思い出されます。

終戦直後はアメリカ兵に何をされるかと恐怖でいっぱいでしたが、何時の間にか負けて良かったと思うようになり、今では平和ボケとまで言われるようになりました。終戦から随分年を重ねて来ましたが、未だに戦火の中で殺し合いをしている国を見ると、上に立つ人の思惑で戦争が長引く事が国民を窮地に追いやっているような気がして早く平和を取り戻して上げて欲しいと思います。
住む家の準備が出来たからと、いよいよ神戸に帰る事になります。祖父が国の規定通りのバラックを元住んで居た場所に建て、私達親子と二人の叔父の家族が住めるバラック建の家の三軒を歩いて10分ほど離れた場所に少し広い土地にゆったりと建ててくれて居ました。家は平屋で坪数が小くて狭いけど一応一戸建の我が家に住むことが出来てとても嬉しかったことを覚えています。

市電の線路を隔てた広大な土地の金網の向こうに蒲鉾型の米軍兵舎が沢山並んで居るのが見えました。街全体は焼け野原になっていますがボツボツとバラックが建って復興の兆しが見えはじめてからの人口が増えて行くのが早かったようです。家の前の道路は結構広いのに土の山が出来て乗り越えて行くのが大変だからと、此処で田舎暮らしで鍛{きた}えた体力を発揮して、毎日スコップで土を取り除いて行きました。

兵舎が側にあるからアメリカ兵が街に沢山歩いています。殆どが黒人だったので道ですれ違うのが怖くて当時まだ市電が走っている電車道をあっちこっちに渡りながら逃げるようにしていましたが、だんだん馴れてくるとイカス感じの人も居たりして最初の恐怖心が薄れてきたようです。日本語の童謡を唄いながら歩く兵士も居たりと大体が良い人達のようです。売春婦やオンリーの女性で街全体が賑やかな感じでした。兵隊同士が女性の取り合いでもめている時には、MPがジープでやって来てピストルを空に向けて発砲し威嚇して居たのが強く印象に残っています。

戦時中の学生の大半が英語は敵国語だとほとんど習っていなくて、特に私はアルファベットさえ書けませんでした。周りが英語を話すのにこれではいかんと近所に住む英語の通訳が出来るお兄さんに隣の子と二人で習いに行きましたが、やっとこさアルファベットを覚えただけで辞めたんだと思います。当時の記憶が余り残っていませんが、多分お兄さんのお仕事が忙しくてバイト代も払わない者を相手にして居られなかったんでしょう。
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M子
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誕生日:
1931/03/05
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自己紹介:
冥土のほとりを歩きつつ、ブログ。
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